デザインのよみかた
トップページに戻る
2018年3月28日 デザインのよみかた #4

これからのデザインを一緒にデザインしよう

振り返り / 今という「時代」を考える

中村
今回は第4回、ついに最終回です。「これからのデザインを一緒にデザインしよう」……と、やや大げさなテーマですが、進めていきたいと思います。これまでの講座を通じて、人類学という視点や、近代という規模など、さまざまな射程でデザインを捉えてきたのですけれども、今日は、これからについて考えていきたいと思います。そうした意味で、これから話すことは仮説ですし、青写真みたいなところもあるかもしれません。ですが、それを考えるところも含めてデザインなのではないか?ということで、進めていきます。

大林
これまでしてきた話を振り返りながら、今回のテーマに移っていければと思います。まず、前々回の第2回で、「いいデザインとはなにか」というところを考えていきました。とくに「いいデザイン」というのが近代化のなかで、どう移り変わりどう捉えられてきたか、という話をしてきました。その結論は、新しいテクノロジーによってモダニズムが準備されているというものでした。これは20世紀だけではなく、そのあとの情報テクノロジーが勃興したときも、同じようにテクノロジーとモダニズムがセットになって繰り返してきた。

前後しますが、第1回では、先ほど中村先生が言っていたように、デザイン史を人類史の時間で考え直したわけです。ここで、なぜデザインの話なのに人類史のタイムスケールで考え直さなければならなかったのか、簡単に説明させてください。

今を「地質学」から考える 今を「地質学」から考える

今の時代は「人新世」と呼ばれています。250万年ぐらいある人類の歴史のなかで、地質学的に地球はほとんど変化がなかったとされているんですが、産業革命が起きた19世紀以降から、人間中心に自然が変わっていったんですね。その要因として大きいのは、人がものすごい勢いで増えていったこと。たとえば食料や水の消費量、交通やコミニケーションの量なんかが、爆発的に増えています。その結果として、今まで考えられなかった気候変動が起きているわけですが、これはもう地質学的に新しい時代ということで「人新世」と名付けられることになりました。つまり、何百万年スパンの区切りが、ちょうど100年ぐらい前、工業化が広がっていった時期であり、モダンデザインがはじまった頃に引かれたんです。

人類史に比べたら最近という感じになりますが、もうすこし身近なところで、産業から考えることもできます。

今を「産業」から考える 今を「産業」から考える

第一次産業革命というのが蒸気機関の発明による工業化で、第二次産業革命が電力における大量生産を可能にしたという産業革命。これが19世紀末から20世初頭なので、第2回の授業でやったデザインの近代化と重なる部分です。そして、第三次産業革命は今も真っ只中にいるインターネットによる産業革命で、次が第四次革命。「インダストリー4.0」と言われているのが、AIやビックデータ、IoTなどによる革命です。第三次産業革命で世界が情報化されて、今われわれのデータはどんどんクラウドに溜められていると思うんですが、今度はそれを再利用するという流れです。AIのような、ある意味で人間よりも知性があると評価できるものと共存するなかで起きる、新しい産業革命だと思います。

このように、人間を取り巻く環境はどんどん変わっていて、さらにその変化の速度は増しているように見えます。それでも人間には、260万年前からそんなに変わってないところもある。それが第1回に人類史という規模で振り返った理由でした。

つまり、まわりの環境はどんどん変わって、それによってわれわれも変わってきてはいるんですけど、人間の身体の限界は決まっている。道具は石器からスマホへと大きく変わりましたが、サイズ感は似ています。きっと手の大きさや能力は、260万年前からそんなに変わってないんじゃないでしょうか。

もうひとつ、社会からも考えることができます。

今を「社会」から考える 今を「社会」から考える

「ソサエティ5.0」というのは、内閣府の科学技術政策にも書かれている固有名詞です。さっきの「インダストリー4.0」と似たような話ですね。最初に狩猟社会があり、農耕社会になって、工業社会、情報社会と移り変わっていって、これから「来るべき社会」をソサエティ5.0としています。これも先ほど言ったような、AIやIoT、ビックデータがある前提で、われわれの社会が刷新されていくであろうということになります。

なにが言いたいかというと、今は時代の潮目と言いますか、なにかが終わってなにかがはじまる時期だということなんですね。

情報社会の時代、インターネット技術による第三次産業革命のときに起きたのは、コンピュータによって世界がロジカルに実装されたということだと思うんです。そうやって環境が変わり、人間がしていたことが環境に委譲されていったことで、今は「われわれになにが残っているのか」という問いが突きつけられてるんだと感じます。第3回で話したのは、それがセンスじゃないか?ということでした。

こうした時代背景において、この先のデザインはどうなっていくのか。そのためのヒントになるのはどんなものか。今日はこういったお話を、仮説としてできればと思います。

われわれが最近よくしてるのが、アプリケーションではなく「OSを考え直す」という言い方なんです。たとえば「デザイン思考」という方法を使うのは、アプリケーションレベルの話じゃないですか。これまでいろんなアプリケーションを試してきて、今はやや行き詰まってる感がある。じゃあそれ以前の話として、そもそもどうデザインに取り組めばいいのか。今われわれは人間をどのような存在と見るのが妥当で、そのときデザインはどう考えればいいのか。そんな大風呂敷を広げた話を、「OSを考え直す」と呼んでいます。

ロジックというのは、極端に言えば、あり/なしとか、いい/悪いとか、分けて考えることで理解をしていく、分かっていく方法だと思うんです。前回言っていたように、かつてロジカルに考えることは、とても合理的なものでした。

二元論でなにか違和感があるとすれば、ひとつは強すぎる主体性です。一般の西洋的な価値観からすると、われわれは周りに流されながらうまくやるタイプな気がするんです。でも西洋では、自分が強い主体性を持ってまわりをコントロールして、自分の人生をデザインするというのが、いい価値観とされています。ここはまさに前提となる宗教観のようなOSが違うと感じるところですが。でも実際は、すごく主体性が強い人も、まわりから影響を受けながら、自分の主体性の肥やしにしてると思うんです。なんというか、そう考えた方が今っぽい。

もうひとつは、日本人はなかなか割り切るというのが苦手だということ。AでもあるしBでもあるとか、AではなくBでもないけど成立しているとか、曖昧さを保ったまま活かしたいといった感覚です。たとえば、あるものごとを問題と言ってしまうと解決しないといけなくなりますが、問題と思わなければ解決せずに次へ行ける。日本人的な感覚としても、二元論に対して違和感を持ってしまいます。

つまり、ものごとを0と1でバイナリーに考えるというアイデアがコンピューターに実装された今は、われわれ人間のOS自体をリプレイスして取り組んだ方が、デザインに向かう上ではいいんじゃないかなと思っています。大げさな言い方ですけど、「ヒューマンOSのグランドデザイン」をしていかないといけないという話です。今回用意したのは、そのOSの考えるヒントのようなものです。

今しているのは、そもそもの考え方を変えましょうという話なので、普段はこの前提を説明するまでが大変なんです。業界のいいところは、いろんなコンセンサスを前提にして、そもそもの話をしないで楽に仕事ができてることなので、「デザインとはなにか」みたいな問題提起には、かなり抵抗があると思います。

その意味で、今回こういった話をする機会をいただいてるのは、本当にすごくありがたいことなんですよ。なぜかここで突然感謝の気持ちを表してみたわけですが(笑)

中村
最近変わってきたことで、身近な例を紹介すると、二元論的な発想の変化があります。たとえば、こうしたコップを写真に撮って広告物をつくるとき、これまでのセオリーであれば、無地背景の抽象的な空間、つまり真っ白な背景などで撮影していました。それがInstagram以降、風景そのものを切り取ってしまうような写真が主流になっていますよね?それはかつての価値観であれば、ノイズ的なものを含んでしまっているけれど、今だとむしろその方が素直な写真と見られるのかもしれない。

同じように二元的に割り切れない問題だとLGBTQの話も近年頻出していますし、たとえばアンビエント音楽とか、譜面には情報が記載できない音色や塩梅の音楽だけど、なんだか気持ちいいような、二元的視点となると見落としがちだったところが見えてきていると言うところがあるかもしれません。

これからのデザインの可能性

中村
これからのデザインの可能性というところで、この話の前提となっているのは第二回目でしょうか。モダンデザイン、近代デザイン史を扱いましたけれども、あれは基本的には西洋で生まれたもの。それは20世紀らしくインターナショナルなスタイルを目指したところなんだけれども、やっぱりどこでも使えるものっていうのは、どこでも合うことはない、フリーサイズの服は誰でも着られるけど、同時に誰にも合わないという状態を生みます。そういうところでいくつかヒントとなりそうな民藝を紹介程度に扱い、そこから派生していくところを見てゆきます。と、その前にひとつ見ておきたいものがあります。

Raffaello Santi scuola di atene (1510) Raffaello Santi scuola di atene (1510)

ルネサンスのときのラファエロの「アテナイの学堂」いう絵画です。アルベルティの『絵画論※1』では「面の上の点」というところからはじまります。ルネサンスというと、今ではクラッシックな扱いを受けますが、当時としては最先端の科学技術を謳歌した時代だったことを忘れてはいけません。だから広めの射程で言うと、このあたりからモダニズムという意識が生まれています。

長谷川等伯 松林図屏風 (1595?) 長谷川等伯 松林図屏風 (1595?)

これは遠近法を使って描かれている絵画ですが、真ん中に立たないと遠近感が成立しません。つまり作者の視点でなければ空間の遠近感、構造が見えてこない。パースペクティヴの論理で空間を再現しているし、しっかりと一番奥のところまで、細かいところまで見えなくなるというところまで描いて、これが一番奥だよと指している。では、対照的な東洋絵画として、長谷川等伯の『松林図』をみてみます。イタリアと日本、時間的には90年くらいタイムラグがありますが、こちらは空間的というか、湿度や空気感が感じられます。ラファエロのようにパースペクティヴ的な描きかたではありませんが、それがゆえ、どこから見てもその空気感や遠近感を見てしまう。これはいわば二元的な、つまり論理的な描き方とはまた違う見方での空間感、遠近感があるといえます。

今回は西洋の美術と日本の美術、つまり西洋と東洋の美術の違いにも触れていきながら進めていきます。ヨーロッパ大陸に近代造形運動の名称をマッピングしました。ドイツ工作連盟、ディ・スティル、アール・ヌーヴォー……などなど。主要な近代造形運動は、こうして見ればヨーロッパのごく一部のエリアで発生していることがわかります。それらがグローバルスタンダード的な性格をもって定着していくわけですよね。では、日本ではどういったデザイン運動や造形運動があったか紹介します。

キーワードとなるのはこのふたつ。ひとつは柳宗悦らによる民藝運動、もうひとつは谷崎潤一郎——もちろん彼は小説家・作家です——による『陰翳礼讃※2』という随筆です。これを紐解いてみます。

柳宗悦には民藝を紹介した『手仕事の日本※3』にもあるように、地々の手工芸・手工業に着目して、それらを紹介しながら価値付けをしていった、活用していったということで知られています。それは土着のモダニズムともいえます。よくイギリスのアーツ・アンド・クラフトの影響を受けていると言われたりもしますが、いっぽうアーツ・アンド・クラフトが作家志向、ある種の高級志向みたいなものを内包していたとすれば、彼らが見出したのは、いわゆるなんでもないもの、当時段階で、それぞれの地で長年生産され続けてきた工芸品だったという点です。そうした意味で世間のイメージにある以上に、民藝はバウハウスに代表される工業化したモダニズムと方向性とちかい。イギリスやドイツに比較し、産業革命が後発だった国にしてみれば、そういうところに価値を見出していくことは、ひとつのモダニズムのアイデアだったのかなと見ることができます。

こちらは柳宗悦の子息である柳宗理さんの仕事です。現在、日本のモダンデザインを代表するような人物という扱いになっています。今でも氏のプロダクトは一般的に流通している。そう思うと、いわゆる民藝とは距離があります。宗悦が民藝で見出した、ふだんの生活のための品、しかも大量につくられるなんでもないようなもの。これを工業製品でなぞることを目指したのが、宗理さんだったのではないか。これは現代の民藝と言えるし、それは結果としてモダニズムのデザインとなっている。この親子の関係というものは、宗悦の思想を宗理が時代に合わせアップデートしたとの見方ができるはずです。

柳宗理 新しい工藝 生きている工藝 柳宗理 新しい工藝 / 生きている工藝

実際、柳宗理さんが編集長をされていた『民藝』という雑誌のなかでは、デニムジーンズや蒸発皿、ピッケルなんかの日用品を、生きている民藝・工芸と紹介がされています、そうした意味では宗悦の視点とモダンデザイン、産業時代のデザインをつなぐようなことに意識的に取り組んでいた印象を受けますよね。そうした意味で民藝を、ステレオタイプな手仕事回帰という見方ではなくて、日本のモダニズム運動のひとつとしての見方もできるはずです。

もうひとつは谷崎潤一郎『陰翳礼讃』。デザイン畑ではそれなりに読む人がいる印象があります。なぜかと考えれば、ひとつはヴィジュアルイメージを想起させるくだりが多いこと。視覚的なエッセーということかもしれません。ここである一節を引用します。

西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった。

谷崎潤一郎「陰影礼賛」

そこでわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれの藝術自体を歪めて行く。西洋人の方は、もともと自分たちの間で発達させた機械であるから、彼等の藝術に都合がいいように出来ているのは当り前である。そう云う点で、われわれ実にいろいろの損をしていると考えられる。

谷崎潤一郎「陰影礼賛」

これが今回キーワードに紐付くかもしれないところで。これは第二次大戦前に書かれたものですが、西洋の方は順当な方向をめぐって今日に到達し、われわれの方は今日のように逢着したからこれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年違う方向に歩むようになった——こういうくだりがあります。いわゆる日本の近代化というのが、イコールで西洋化だったというのは見逃せないところで、おそらくは明治維新や敗戦後をきっかけに二元論OSが入り、定着してきたのではないでしょうか。これに続く文章なんですけれども、そこにわれわれの藝術自体を歪めていく——と言うのも、センスとか生活習慣とか、思考も含まれると思いますよね。西洋人の方は自分たちで発達させた機械だから、都合がいいように出来ているのは当たり前であるともいいます。そうした意味では損していると考えられると指摘していますが、ではなにを損しているのかということを考え直すのも、今必要なのかもしれない。

ちなみに近代西洋におけるデザインの考え方、つまりモダニズムの考え方を整理していくと、前々回にご紹介したマックス・ビルの例が象徴的です。彼はバウハウスに学んだあと、ウルム造形学校の学長を務めたような人物です。彼がおこなったデザインの定義は「デザインの目的は建築であれ、ビジュアルデザインであれ、プロダクトデザインであれ、いずれのデザインであっても全て環境形成である」という言い方をしています。つまり、自分の周りのものすべてがデザインの対象であるっていうところなんですよね。

それは、図式化するとこういう形なんです。自分自身が真ん中にいるとしましょう。その周りにいわゆる平面、情報領域のものがあって、次に工業製品が領域にあって、建築があって、都市があってという、同心円的に広がっていくような図のようなイメージができます。自分の周りがこうやって拡張的になっていく考え方とも見ることができる。

マックス・ビルが学んだ、バウハウスのカリキュラムがまさに同心円であり、その最終目標は建築、ビルディングとなっています。ベーシックから素材のスタディを経て、最後にビルディングにいくわけです。こういう風に、自分を中心にしながら段階的に領域を拡張していくというのが、西洋的な環境の捉え方であり、デザインされる環境の対象であると言えます。

環境そのものが、デザインの対象だという見方もできますね。ちなみにバウハウスは1919年創立ですから、まもなく100周年を迎えます。バウハウスがひとまず20世紀のデザインにおける最初の基盤になったと見れば、そろそろ新たなる21世紀の基盤が出てくる時期なのかもしれません。ちょうどバウハウスの初代学長 ヴォルター・グロピウスは1883年生まれだから僕の100個上なんです。なんだか学校の先輩みたいな言い方ですが(笑)いわゆる様式的なモダニズムのデザインの捉え方としては、そろそろ転機が生まれるタイミングなのかもしれないな、とも思いますね。

今は東西で比較しています。こうしたものが、西欧の環境デザインの考え方です。いわゆる環境デザインというのは、Environmental Designという言葉になります。ちょっと都市環境みたいなニュアンスが強くなってくるわけですよね。環境というのはいろいろな解釈ができるかなというところが肝なんですよ。例えばAmbientと言われる、周辺のものですよね。アンビエント・ミュージック、環境音楽の環境。この部屋のなか、温度感とか空気感とかそういった範囲。

大林
イメージとしてはEmbironmentが自分の外側の環境で、Ambientは自分が内側で感じる環境という違いですね。なので、Ambientの方が狭いスケールだと思われるんですが、自分のコンディション次第ではより広く感じられる可能性もあるんじゃないかと思います。すごく深く瞑想できてるときなんかは。怪しい話になっちゃいますが(笑)

中村
デザイナーや建築家が茶室空間に期待しているのもそのあたりかもしれませんよね。狭いけれどもどういうわけか広く感じる、というか無限のものと感じる、日本庭園の石庭とかもそうでしょう。あとはヴァナキュラー、風土という見方もできますね。場そのものというか。土地柄、土地による色の違いですね。

最近では、郷土デザインみたいなのは流行っているけれども、ああしたものはどこかで成功したパターンが他でコピーペーストされている印象もあって、瞬間的に盛り上げるみたいなフォーマットをみることができる。そういうのは、ちょっと違うかなと。ただ、一昔前までは東京を中心で流行していたものが、その後郊外に伝播するというような構造があったとおもうんです。そうした意味で、中心が増えたという状況なのかもしれません。20世紀のグローバル思考の究極系にインターネットがでてきて、実はそのグローバル性によって、それぞれの固有性が浮き彫りになってきたのかなという印象もあります。いまだに方言があり、郷土料理がある。それは残ってしまう、継がれてしまうことかもしれない。

もうひとつはMilieuというフランス語で、意味はAmbientに近いです。なので、環境ということばは、漠然と広い範囲ばかりでなく、自分がその都度感じている範囲や、場として捉えることもできる。概念として拡張性があるものなんですね。おそらくマックス・ビルが話しているのはEnvironmentalの領域かなと思います。

ここで紹介したいのが、鈴木大拙の環境。鈴木大拙をここで深く解説する、深掘りするような知識が私にはないのでそこはちょっと置いときますけれども、いわゆる近代に活躍した仏教学者です。おもに禅について活躍した人で、アメリカとかイギリスとかに出て、東洋思想を伝えていった人物の1人です。アメリカで禅が流通しているのは、彼がまいた種のひとつによるものなのです。先ほど紹介した柳宗悦も、鈴木大拙の門下生のひとり、それ代表する人物ですね、だから大拙の思想が、民藝という運動になって、宗理のデザインになったと——3世代で宗理流のモダニズムが成熟したのかなとも見れます。彼の著作によれば、西洋の二元論的な考え方に対して、東洋の未分というか、考え方を分けず、未然、分ける以前を考えることをいいます。問題意識としては今日の講座と近いかもしれません。

大林
年代を見てもらえればわかりますけれども、鈴木大拙が活動していたのは西洋化が進んだ時代なので、近代のことを知った上で語っているのがおもしろいところです。つまり、ある程度自分が西洋化された状態で、あらためて禅や東洋について説いているわけなので。

中村
多分、明治維新や第二次世界大戦のあたりまで、東洋が西洋に対して劣っているという前提が少なからずあったなかで、それは、劣っているではなく、違う考え方をしているというものだったのだと思います。じゃあ東洋の特異性ってどういうところなのかなといったときに、大拙はわからないというところは、わからないという状態であるというようなことを言うわけです。大拙の思想を、こうした場で端的に言うのは難しいものですが、そのなかでも環境というものは、自分とその環境とをひとつのものに見るという言い方をしているんですよね。

マックス・ビルの考え方は、図式的に自分と外というものがあって、自分の外界がどんどん段階的に広がっていくというものだけども、部屋の扉を全部開けて風を通すと自分がその環境と一体化しているような感覚にあるときがあると思うんですが、大拙のいう環境はそういう捉え方になっています。初回に扱ったオブジェクト思考に通じますよね。いわゆるタスクで段階的に進んでいくのではなくて、それが相互に対象化してあるというところなんです。

これからのデザイン観 これからのデザイン観

大林
次は「禅」について話をしていきます。東洋的な視点を再編集して提示できればと思っています。まず禅をアメリカに伝えたのが鈴木大拙ならば、その末裔はスティーブ・ジョブズという図式があります。禅の本を買うと、帯がとにかく「あのスティーブ・ジョブズの愛読書」とか書いてあって、電車のなかで読むのが恥ずかしいんですが(笑)

ここで突然なんですけど、「私であって私ではない私」という感覚を持ったことありませんか。具体的に言うと、クラウドにいる「私」のことです。われわれがいろんなサイトを見たり、いろんなものを買ったり、いろんな投稿をしたりとか、情報の集合体としての私がたしかに存在する。あれは私ではないけど、やっぱり私でしかない。そのような私をどう扱うか。これはなかなか割り切って考えるのが難しいと思うんです。それを私であって私ではないという状態で扱うというのが重要になると思っていて、それが禅の心構えにすごく似ているように感じています。

禅的デザインのよみかた 禅的デザインのよみかた

さっきロジックの話をしていましたが、ロジックは「ロゴス」というギリシャ語に由来しています。ロゴスには、まず「AはAである」という同一律の肯定があって、次に「AはA'ではない」という矛盾律の否定があり、最後に「AとA’以外はない」という排中律によって中間領域が排除されています。そうやって、存在を整理しながら理解するというのが、ロゴスの世界観だと考えてください。

今日話したいのは、それに対する「レンマ」というもので、これも古来のギリシャ語なんですけど、ロゴスほどは使われていなくて、だから分析もあまりされてこなかったものです。このレンマという古い知恵が、最近デザインのツールとして使えるんじゃないかと考えています。これは禅と言っても、ナーガールジュナという人ががつくった『中論※4』という本に書かれた考え方で、これは大乗仏教の元になったような教義なんです。

禅的デザインのよみかた 禅的デザインのよみかた

さっそくレンマがどうなっているか見ていくと、まず第一律に「AはAである」というのがあって、そして第二律に「AはA'でもある」という状態がある。ちなみにこの「AはA'でもある」という状態はジレンマと言われる状態ですね。そして第3律のトリレンマは「AはAでもありA'でもある」というのが両立した状態です。そして、第4律のテトラレンマは「AはAでもA'でもない」という絶対否定の状態です。この展開の仕方が、西洋的な価値観にどっぷりつかっていた自分からすると、とても新鮮に感じたんです。

すこしロゴスの補足すると、神が「光あれ」と言われたと聖書に書かれてますが、この光に対して影ができたところから二元論がはじまっているとされます。一方、レンマは「感覚的に把握する」という意味なので、分けて考えてはないけど、別にわけがわかってないというわけではありません。

たしかに、われわれはざっくりとしたまま受け止めることをよしとせず、それがなんなのか頭で理解しようと努めてきました。われわれが西洋的な価値観の強い教育を受けてきた結果かもしれませんが、とにかくしっかり理解するところに着地しようとしてしまう。でも、ちゃんと理解した上で、言語化できないけどわかってないわけじゃなくて、なんとなく感覚的に把握しているという状態ってありますよね。その理解する手前の状態からなにかをつくりはじめると、かなり道筋が変わってきそうじゃないですか。これがレンマに感じているデザインの可能性です。

あと、ロゴスとレンマの違いについてもうひとつ言っておくと、ロゴスは「砂漠」で生きている人の考え方らしいです。つまり、死が直前に迫っているので、「水は存在がしないが故に存在している」とか言っていると、「いいから水よこせ」と怒られちゃうような、死が差し迫ったところで考えられた西洋的な知恵です。一方、東洋は「森林」の思想と言われていて、自然の生命が満ち溢れているなかでの感性なんだそうです。そりゃ考え方が全然違うはずですよね。

中途半端になってしまいますが、これを詳しく説明していると大変なので、あとは参考書籍を紹介するので、そちらに任せたいと思います。戦後の日本にはレンマを再評価している流れがあるんですが、その一番最近の本が木岡伸夫さんの『〈あいだ〉を開く※5』です。

それから、鈴木大拙の『新編 東洋的な見方※6』。これは禅についての本ですけど、先ほど触れたように、西洋的な視点で西洋と東洋を対比させています。東洋の価値観を西洋的に描いたと言えるかもしれませんが、とにかく読みやすいエッセイなのでオススメです。

さて、レンマの次に、デザインの可能性を感じる方向として紹介したいのは、「現代思想」です。現代思想と言っても範囲が広いですが、今日お伝えしたいのは最近の現代思想がどうなっているかという話です。説明すると長くなるので単純化しますと、要は「脱人間中心的」になっているんです。これまでは、しっかりとした人間主体があって、まわりの存在があるという、先ほどの二元論にも通じる世界観でした。要するに、認識から考えることが多かったんだと思うんです。

認識論的に今の目の前のことを説明してみますね。たとえば、このコップを認識するときに、コップ自体のことはわかりようがないけど、このコップを自分が認識して頭に描いているものは確かだという世界観です。それに対して、最近は存在論的になってきています。つまり、このコップという存在が普通に存在することは疑いようがないというところから出発した世界観なんです。ただし、われわれ人間も特別な存在ではなく、いつも人間が主体なわけでもなくて、人間もほかのものと同じように存在しているよねという話です。

現代思想的デザインのよみかた 現代思想的デザインのよみかた

たとえば、今まで環境問題について話すときに、人間が環境に長く住むための問題と捉えられていたと思うんですけど、実際問題なのは環境というシステムを維持し続けることですよね。それが最終的にも、人間のための環境の問題として大事になってくる。だけど、なかなかそういう考え方にならなかった。要するに、人間を主体として考えすぎたということなんだと思います。

人間が主体の座が揺らいでいる理由のひとつには、AIのような存在によって、自分たちがもっとも知的だという確信が怪しくなっていきていることもありそうです。なので、より正確な世界観に更新されていっているような印象があります。そして、これも東洋思想っぽいんですよね。西洋由来の現代思想が、西洋的に考えた末に東洋的な場所にたどり着いているというのが、すごくおもしろい。

というわけで、現代思想の話もキリがないので、本を紹介しておきます。マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか※7』という本で、ひさしぶりによく売れてる現代思想の書籍らしいです。哲学書にしては読みやすいですし、読むことで今っぽい理路を追える一冊だと思います。

最後にご紹介したいのは、これも現代思想に近い話なんですけど、「人類学」です。さっき視点の話をしていましたけれども、人類学がデザインのヒントになりそうな点は、さまざまな視点に立つことの可能性です。

たとえば「他人の視点に立って考えましょう」と言うはやすしですが、実際に他人の視点に立てるかというと、なかなか立てない。最近の人類学は、視点を変えることの痛みを持って、本当の意味で違う視点に立ってみるということをしています。たとえば、自分の飼い犬の視点になるといっても、「ご主人さま、おかえりなさい」とか「ご飯食べたいな」みたいな感じで人間的なアイデンティティーから考えたりするじゃないですか。でも実際はそんなんじゃないと思うんですよ。人間には思いもつかないような、もっとめちゃくちゃなことを考えているはずで。そういった人間には想像がつかないリアルさを、最近の人類学は追求しているように感じます。

人類学的デザインのよみかた 人類学的デザインのよみかた

一方で、昨今の人類学では、人間の文化の方こそひとつのもので、それ以外に人間の知らない自然がたくさんある「多自然主義」という立場が増えています。ひとつだと信じていた自然が複数あるとなってくると、結構視点が変わってくる。急に身の危険を感じると言いますか。

たとえば、われわれから動物を見たときのジャガーや豚のイメージってあるじゃないですか。それはあくまで人間から見たひとつの解釈でしかないということですね。人類学の研究対象として訪れるような地域では、人間にとってのビールとジャガーにとって人間の血を同等に考える部族がいたりするそうです。その人たちが見ている世界と、われわれが常識的に見ていると信じる世界とは、明らかに違う。だけど、どちらにもそれぞれのリアリティがあるわけですよね。

今の時代をどう考えればいいのかわからないときに、こうした人類学の見方は「よみかた」のヒントを与えてくれているように思います。ここにこれからのデザインの可能性を感じています。

今日お話ししたような、存在論的転回と言われている人類学の話に出てくるいろんなキーワードは、『Lexicon 現代人類学※8』という本で簡潔に説明されているので、ぜひ当たってみてください。

あと、人類学者のティム・インゴルドという人が書いた『メイキング※9』という本もオススメです。副題が「人類学、考古学、芸術、建築」とあるんですけど、僕には完全なデザイン論に読めました。手に触れているものと人間の意識が交差する場所で起きていることを、すごく注意深く描いた本です。

もう一冊、まさに今回のテーマのように、デザインを人類学的に考えた『我々は人間なのか?※10』という本もご紹介しておきます。デザインをするにあたって「人間とはなんなのか?」から考えなくてはならないという論調で、今回の講義にも通じるところが多い本なんですが、わりと人気みたいです。

というわけで、最初の民藝から、禅、現代思想ときて、最後の人類学まで、いずれも今の状況に対してわれわれが変化するためのヒントになればと思いながら、ご紹介してきました。どれも「存在から考える」とか「分けるのではなく、その間をひらいていく」というところが、共通していたかもしれません。

中村
二元論としては臨界点に来ているということかもしれないですね。存在そのものや間を見ることによってまた、つなぎ方が変わると言いますか。つなぎ方が変わることで、われわれも変わっていけるんじゃないかと思います。

大林
変化を怖がって保守的になる心理ってありますけど、持たざる人ってあんまり保守的にならない気がするんです。既得権益じゃないですけど、なにかを持ってる人がそれを失わないためにやろうとする。変わるという意味だけで言うと、その状況に適応して生き残っていくような考えなのかもしれません。

中村
あとは、今回の講座の筋にあったように、モードが工業や産業から情報になって、次にくるものなにか考えるような、受動的な価値観の変化もあるはずです。自分主体で考えないというところも共通したテーマだったかもしれません。環境主体で考えていくというか、身を任せるというか。

大林
身を任せよ(笑)

中村
今回のテーマである「これからのデザインを考えよう」と言うことで、結構途方のないところまできたような気もしてるんですけれども、現状、デザインはアプリケーションをアップデートしたり入れ替えたりするというところでは、すでに立ち行かなくなっているというか、ある種の臨界点を迎えているわけです。そうなってきたときに、いくつかヒントとしてこういうところがあるのではないかというのを紹介させていただきました。あるふたつの意見に対するイエスとノーの間、中間に気づいていくことによって、解いていくような視点でしょうか。

大林
われわれは「中心」を持たない秩序を知らないと思うんですよ。たとえば「国」とか「親」とか、そういった安定が約束された中心がある上で、生活をしてきました。今はそういった中心がなくなっている時代と言えるかもしれません。だけど、中心にならなくても寄りかかれるものはつくれる気がするんです。そういったものをつくっていくことが、今後のデザインなのかなと思います。

ということでこの授業は以上で終了となります。どうもありがとうございました。

デザインのよみかた