デザインのよみかた
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2020年11月22日 東美祭2020 トークイベント ゲスト:関口裕さん+吉竹遼さん

デザインの初期衝動

中村
こんばんは。今回は2020年度の学園祭は感染症下ということもあり、こうしてオンラインの開催となりました。各学科企画によるトークイベントが続いてきて、これからはコミュニケーションデザイン専攻の枠となります。図らずもトリとなりました。今日は日曜日の夕方なので、『笑点』の裏番組みたいな気分ですね(笑)

なかには今朝から通しで参加され、そろそろお疲れの方も多いかもしれません。学科によっては卒業生をお招きして、実際のお仕事の話をされたり、講義的な内容のところもあったようですが、僕たちとしては時間帯などをふまえ、わりあいゆるやかなトークをしていきたいと考えています。

今回、ご登壇いただくのはOVERKAST代表であり、エクリ編集長、それから本校の4年前期授業『エクスペリエンスデザイン2』をご担当されている大林寛さん、それからTHE GUILDのメンバーで、本校の2年後期授業『インターフェースデザイン1』をご担当されているよりデザインの吉竹遼さん、デザイナーの関口裕さんです。最後に僕、中村将大の4人となります。本日はどうぞ、よろしくお願いいたします。

一同
よろしくお願いします。

中村
さて、本日はみなさまお集まりくださり、ありがとうございます。さきほど少し触れたように、ほかの学科を見ると比較的プロフェッショナルなお話をされていたようです。ご覧になっているのは在校生がほとんどだから、そうした意味では将来的なお話といえます。

ここでは、むしろ僕たちが在校生ぐらいの年齢の頃、なにをしていたか——そうしたことを思い返す趣旨で進めてゆきます。もちろん、当時のデザインをめぐる状況と現在では異なることもあるでしょうから、そのあたりはご了承ください。

では、さっそく吉竹さんからお願いします。実は今日の昼過ぎ——つい、さっきですね。こっそりデータをいただいています。なぜか、4人のグループチャットではなく、中村個人に(笑)

吉竹
そのほうが、おもしろいかなって(笑)

独りよがりと人に使われるもの

中村
ちなみに吉竹さんの学生時代は、どのくらい前になりますか。

吉竹
大学入学が2006年だから、大学1年生だったのが14年前です。せっかくなので、ここではもっと昔のものから用意しました。デザインと自分との出会いみたいな話なので、最初から振り返ってみようかなと。かなり古いものから持ってきました。

2002と書いてありますね。たぶん僕がはじめてデザインっぽいことをしたものです。見てのとおりホームページですね。

中村
ウェブサイトとは言わない(笑)

吉竹
そうです。あくまでもウェブサイトではなくホームページなんですが(笑)これが2002年なので、僕が中学2年生のときにはじめて作ったものですね。これは当時好きだったアニメのキャラクターのファンサイトです。ここにあるように2002年がはじまりなんですけど、2006、2007年くらいまで続いていて、けっこう人気だったんです。

大林
6000ヒットオーバー!

吉竹
そうなんです。当時としてはめずらしくIPアドレスでカウンターを制御することをしていて——つまり更新しても、同じIPアドレスはカウントされない仕組みなんですけど——それで、一日300くらいアクセスがありました。当時はYahoo! JAPANのディレクトリに登録されていました。

関口
強い……。

吉竹
これがたぶん、本当に最初の最初に自分がデザインしたものですね。今のが中学2年生で、これが2006年。ギリギリ高校3年生のときに作ったものです。当時、僕は高校で演劇を学ぶ学科にいたんです。自分たちで役者をやりながら、スタッフもやるというならわしがあって。僕は大道具・小道具担当に所属していました。これは、そのスタッフとか同期の名前を入れた携帯の待ち受けです。当時のガラケーのサイズで。

たぶん、当時フリーソフトであった『Pixia』だったかな。詳細は忘れちゃいましたが……。ドットで線をうったりするやつで、ポチポチ作っていました。だから、この書体とかはプリインストールされていたものを、多少いじくったくらいのものです。こうしてグラフィックデザインっぽいことをしたのが、高校3年生のときですね。なので、このころにレイヤーという概念をなんとなく把握していました。

その次になると、2007年なので大学2年生ですね。

大林
おお、急にちゃんとした感じですね。

吉竹
そうですね。これが大学2年の冬の課題なので、ちょうど僕が受け持っているクラスの人たちと同じ時期ですね。大学の1年から2年の前半は、わりと基礎学習というか、あまりオリジナリティのない課題が多かったのですが、この課題ははじめて自分でデザインを考えるというやつでした。ちょうど自分がデザインっておもしろいなと思いはじめた頃のものですね。当時、クラス内で投票があったのですが、ありがたいことにぶっちぎりで票を獲得して、それが自己肯定感につながりました。思い出深い課題です。

これは当時のスケッチとモックアップです。今見ると「完全にスタイリングにしか目にいってないな、こいつ」という感じなんですが。

大林
繭というかコクーンがまた出てきましたね(笑)

吉竹
たぶん、そういうのが好きなんですね(笑)記憶としてちょっとあります。次のものは2008年になります。僕は演劇の高校からデザイン系の大学に行ったんですが、やっぱり何人かは舞台の方に進んだんですね。鴻上尚史さんという有名な演出家の方がいらっしゃるんですが、同期のひとりがそこに所属することになって「遼くん、ちょっとフライヤー作れない?」と依頼されたんです。ふたつ返事で「できるよ!」と言ったものの、Adobe Illustratorをほぼ知らないころで。機能とかをほとんどわからなかったので、三日くらい徹夜して、なんとか使い方を把握しながらギリギリでなんとか作ったものです。

その次は、僕が社会人になってはじめて作成したUIデザインですね。研修とかもなくて、会社に入って二日目でいきなり副社長つきの案件をまかされて、提案することになりました。これは右も左もわからないのに、どうにかUIデザインになるかとヒーヒー言いながら作ったもの。

今となっては、なかなか目も当てられない感じなんですが、今でも僕にとっては愛おしいものです。あとの世代の励みにもなるかと(笑)当時の未熟さがよくあらわれています。今回は未熟なものをテーマに選んで持ってきました。

中村
これはどういうアプリになるんですかね。

吉竹
これは、いわゆる女性向けのアプリですね。女性のライフスタイルや生活に合わせたものという目的があって。当時、近場に大学の同期がいて、いろいろヒントやアイディアをもらっていました。それで買いものをするとき、割引をはやく知りたいとのことだったから、そのまま採用したりとか。いくつか形式を指定されていて、もうひとつは計算機とカレンダー。女性向けのカレンダー……う〜ん、みたいになって。まあ、当時としてはこれが精一杯という感じでした。

中村
「たかしマジしんじらんない」と書いてある(笑)

一同
(笑)

吉竹
僕、こうしてデザインするとき「たかし」という、仮のユーザーネームをよく使うんですよ。

大林
それがここからはじまっていると。

吉竹
そうそうそう(笑)

中村
大学のときの照明灯課題のとき、フォルムだけで考えていると、振り返られていましたが、ここではじめて機能とか、そういうものが意識として出てきたわけですかね。

吉竹
そうですね。やっぱり学生時代はどうしても、自分の作りたいものに全力投球してしまう時代ですよね。ここで社会に出てはじめて、自分以外のだれかのために考えるという、かなりのきっかけになったと思います。

中村
ある意味、お芝居のフライヤーもそうですかね。

吉竹
そうですね。たしかにこれも依頼者はいたので、いろいろ手直しをしながらやりました。クライアントワークですね。

中村
身近な人から、こういう公演とかライヴのフライヤーとか、ちょっとした名刺とかを依頼されるというのは、デザイン系学生あるあるですよね。

吉竹
あるあるですね。友達の名刺もたくさん作りましたね。こんなの作ったっけ、みたいなものもあります(笑)

中村
やっぱり、みんな経験しますね。自分の手元に残っていないようなものがたくさんある(笑)関口さんも、そうした経験はありますか。

関口
そうですね。僕はちょうど2006年に就職したようなタイムラインになるので、吉竹さんとはちょっとズレているくらいですね。このお芝居のフライヤーもそうなんですが「ああ、そういうことやってたな……」と思いながら、お話を聞いていました。

友人がなにかやるから作ってよ、とか、今あったように名刺とか。「作ってよ」と頼んでもらって、それでなにか役に立つとか、よころんでもらうとか。そういうところで自己肯定感が生まれます。あっ、わりと人の役に立てるんだとか、自分がいてもいいんだとか。そうしたことをピュアに思ったりして。それが、この道に来る原動力だったなというのは思っています。あっ、結論を言ってしまった。

大林
吉竹さんの最初のホームページ、もう一度見せてもらっていいですか。『月の繭』もそうですし、そのあとの『SHIRANUI』もそうですけど、ネーミングとか世界観が独特だなと、おもしろく見ていました。「駄文をUP」っていうのもいいですよね(笑)こういうところ、marqueタグで走らせてみたりとか……。

吉竹
『月の繭』というのは、当時好きだった曲名なんですよ。この時期は駄文っていうのがありましたよね。インターネット上には……。ここ、モザイクかけようかどうか、一瞬迷ったんですけど、残しておこうと。まさにこの青いところはmarqueタグで走っています。

中村
ツイッター以前の世界にありましたね、駄文(笑)でもなんでしょう。この最初のホームページからガラケーの待ち受け、フライヤーに照明灯……と、いずれもジャンプが自然な印象があります。もちろん大学以降は大人っぽいというか、それらしくなっているわけですが、こうして、同じ文脈のなかでデザインが形成されるんだな、というのを実感しますね。この2002年のホームページの段階では、今の姿を想像できていましたか。

吉竹
そうですね。こうやって見るとなんだかんだ、つながっているものはあると思います。2002年の頃は、まだデザイナーになりたいとかは一切思ってなくて。今のことは予想もしていなかったですね。

中村
やっぱり、これ作っていたときは楽しかったですか。

吉竹
いやあ、もう楽しかったです。ちょうど僕がインターネットに触れはじめたのが2000年だったので、そこからそれを介して、いろいろな人と知り合ったり、人のホームページを見て楽しくなって、じゃあ自分でもなにか作ろうか、と爆発したタイミングでしたから、とても楽しかった。以降も一年に一回くらいはデザインをリニューアルしていましたね。

大林
すごい。

中村
ちゃんと「リニューアルしました」とコメントが表示されるんでしょうね。そう思うと、この段階ですでに人が使うものになっているのがすごい。いろいろな人がアクセスする交流の場所になっている。

大林
たしかに。

吉竹
そうそう。ちゃんと掲示板でも報告したり。

関口
昨年……一昨年かな。吉竹さんが個人で作られていた黄色い本。あれとどこかでつながっている感情があると思いました。もちろん、はるかに洗練されているし、社会に向いているから、全然レベルは違うんですけど、最初にこういうのがあったから、今あの視点があるんだなと。

[図1]吉竹同人誌 [図1]吉竹同人誌

吉竹
そうですね。補足すると、昨年くらいから同人誌を作成しています。それは、このころの気持ちを再現したいというのがあります。やっぱり、こういうよくも悪くも、独りよがりな制作というのは、社会に出て、特に会社でデザインをしていると、なかなかそうしたことをする機会もない。やっぱり、自分のなかのどこかでフラストレーションが溜まっていて、もう少し素直になろうかな、と思ってはじめたのが、この同人誌なんです。

まちあるき、柳宗理、そしてタイポグラフィ

中村
自己と他者。ふたつのチャンネルを行き来しながら、自分自身の精度が上がってゆく感覚ですね。ありがとうございます。まずは吉竹さんからお願いしましたが、今日はこういう感じで進めていきます。黒歴史ではないけれど、まあ、恥を承知で……という趣旨で。

さて、次は僕の番です。僕のほうは自分の成果物を含めつつ、影響されたものを紹介してゆきます。最初はこれ、中学時代に出会ったヴァン・ヘイレン。いきなりロックな感じですが、これはサミー・ヘイガー時代の後半。このころ腕のいい代理店とか付いていたのかな。過去のバカっぽいイメージではなくて、なんとなく大人な雰囲気のミュージックビデオが作られています。今出ているのは『Right now』という曲のもの。脈略のないショットが続くんですが、そのうえにタイピングされたテクストが載っていて、一貫性ができている。今の語彙で言えば、タイポグラフィ的な表現と言えるんだけど……こうした文字の表現かっこいいなあと思ったのがきっかけです。

それから高校くらいになるとJIL SANDERのロゴとか、ECMレコードとか、もっと純度の高いタイポグラフィに惹かれるようになる。要するに装飾的な意匠よりも、こうしたミニマムなもの、そしてタイピングで出せるような活字なのに、高精度な表現になっていることに、憧れるようになったんです。この時期が1999年から2002年くらいかな。

大林
高校ですか。シブいですね。マセガキというか(笑)

中村
シブいですね。クソマセガキです(笑)だから、今高校生の自分にあったらムカつくと思う。僕は高校からデザイン系の学校だったのですが、やっぱり名刺の課題とかあるわけです。Adobe Illustratorとプリンタを使うような。それでHelveticaとかGill Sansのボールドを白い画面のなかに、ぽつんと置くわけです。すると講師から「なんで、おまえんとは、絵がなかとか!」と怒られる。福岡弁で(笑)ちょうどそのころ、福岡はいろいろなお店が栄えていた頃で、そこを出歩きながら、こうしたモダンタイポグラフィ的な表現はさんざん目にしていたんですよね。「いやいや、こういうのがいいんですよ」と。本当に生意気なやつですね。

大林
すごくないですか。 これもう40代ですよ(笑)

吉竹
マセてますね(笑)

中村
10代ですでにおっさんですね(笑)今、40代を目前にしてあまり関心が変わっていないところを見れば、実際そうなのかもしれません。早熟なのか、成長がないのか(笑)そうして福岡のまちをあるきながら、ショップカードやフライヤーとかを集めたり、アパレルやカフェ、洋書店や家具屋をめぐるうち、デザインの総合として建築・空間やインテリアのデザインに興味が移ります。

いちばん大きなきっかけは、当時月刊化されたばかりの『Casa BRUTUS』2001年2月号の柳宗理特集。柳さんの長いインタビューがあるんですが、そこで語られるデザインの社会的な立ち位置や責任みたいなこと、それからさまざま文脈を編んでゆくことなど、すごく感銘を受けたんです。ああ、高校のあともデザインを続けようと決めました。宗理さんをつうじて、柳宗悦と民藝の関係も知ったりして——実はは今年の年末に日本民藝協会の機関誌『民藝』でタイポグラフィについての文章を寄稿することになったんですが、なんだか、このときの面目躍如という感じがします。

[図2]Casa BRUTUS [図2]Casa BRUTUS

大林
この『Casa BRUTUS』とかは、完全におしゃれ文脈じゃないですか。そういう文脈でも意識されてたんですか。

中村
もちろんあります。高校生特有というか。やっぱり、おしゃれ文脈でありたいんですよね。ECMレコードとかも最初はけっこう、無理して聴いていました。こういうのがいいんだ……と、思い込んでいくみたいな(笑)いや、実際かっこいいんですけどね。ちょっと大人びた趣味を持って、まわりと差別化したい年頃だったんですよ。

大林
自分でちゃんと理解はしてないけれど、大人がいいって言っているから、きっといいだろう、みたいな感じですよね。

中村
そうですね。そのころの文化的好感度層にウケがよさそうなものに手を出すというか。そういういやらしいところはありますね。だから『Casa BRUTUS』くらいがちょうど入り口としてよかったんですよね。そこから大学に行って……これ、就職活動のときに使っていたポートフォリオです。

[図3]中村ポートフォリオ [図3]中村ポートフォリオ

大林
『PRESENTATION FOR YOU』!(笑)デザインがちょっと渋谷系っぽいですよね。

中村
そうですよね。でもこれ2007年とかなので、だいぶ遅れてきた渋谷系なんですが。

大林
遅れてきた渋谷系!(笑)

中村
学生のポートフォリオにしては、ここもまた生意気で、実際の店舗設計とか、松屋銀座の展示とか、表参道のイベントとか……そういう内容になっています。

吉竹
雑誌っぽいですね。

大林
ですね。マガジンハウスっぽい。おしゃれ好きだったんですね。

中村
そうなんですよ。なんでしょうね。このおしゃれコンプレックスの塊みたいなのは……(笑)まあ、2000年前後、デザインはおしゃれ文脈でとらえられる傾向は、たしかにありましたよね。

大学時代、運がよかったのかなんなのか。さきほどの吉竹さんと同じように、僕もまわりに頼まれたりする機会が多かったんですよね。幼馴染一家の日本料理店が移転する、それなら改装やる?みたいな。デザイン学生特有の小間づかいですね。そうしたことを繰り返していくうち、大学の課題よりも量が増えていった。

そうするうち、いろいろな大学が参加しているイベントの運営とか仕切りをまかされたりもして。そうした意味では今の仕事と近いかもしれないですね。対集団でなにかをする感覚。

この当時はこうして空間系のデザインを学ぶ学科にいて、そうした仕事を探していたんですが、こうしてポートフォリオを作るうち、もっとちゃんと文字組みできないとダメだな……と、あらためて基本に返ってゆきます。こういうふうにいくら雑誌っぽくしても、タイポグラフィを学んでいるほかの学科の人たちには、まったく敵わないことをどうにかしたくなった。

空間とか場のデザインと、タイポグラフィ。一見すると距離があるけれど、自分なりのその整合性がうっすらわかりはじめたのが、この10年くらいなのかもしれません……こうして、自分の話をするの、恥ずかしいですね(笑)

一同
(笑)

大林
なんでしょう。中村さんのことはよく知っていますけど、想像どおりといいますか(笑)

関口
上げてるんですか?下げてるんですか?(笑)

中村
(笑)さっきの吉竹さんもそうですが、過去を振り返ってみるとやっぱりこういう感じかな、みたいな文脈が見えますね。やっぱり、意外な過去というのは、そんなにないのかもしれない。

吉竹
高校からデザインを学ぶことになったきっかけは、なんだったんですか。

中村
恥ずかしい話ですが。入試科目がデッサンなんですよ。だから受験勉強しなくても描いてりゃいいか、くらいの感覚で。それから、僕の出身は福岡でも熊本寄りのほうだったんですが、この高校は太宰府だったから定期券が手に入るんですよ。よし、福岡天神まで15分、これで中心部で遊べる!と(笑)だからやっぱクソガキです。

突然言われた「無理してない?」

中村
ではこの流れで、関口さんもお願いします。

関口
はい。僕、就職して上京するときにハードディスクが壊れてしまいまして……黒歴史をいいのか悪いのか、なくしてしまっているんですが。なので、今日は特にものはなく、しゃべりでお送りします。

そういえば、さきほど発覚したのですが、僕と中村さんは同年代、同級生ですね。1983年生まれなんですが、まあ、違う道をきているなと思いながら聞いておりました。僕はめっちゃ田舎の普通高校にいました。特に美術系でもなく、まわりにそんな人もいない、本屋もない——『週刊少年ジャンプ』があるかどうかの——というところにいたので、デザイン的なこととか、カルチャーというのがあんまりなかったんですけど。そういうのが特別な人たちのもの、というのが無意識的にあったんですよね。すごくおしゃれで、恵まれている人たちが、言ったり、聞いたり、見たりするものみたいな。謎の思い込みをしていたんですね。

僕はこんな感じなので、特にパリピというわけでもなく……(笑)高校生なんで、クラスには元気な人たちもいるんです。なんだけども、完全には馴染めず「おーっす!」みたいなことをやっていたんですが……まあ、ちょっと無理していたんですよ。運動部に入って、元気な人に無理やり合わせて、そういうものなんだと思っていたんですよ。男の子ってそういうもの、みたいな。

なんですけど、ある日、廊下を歩いていたんですよ——あっ、これちゃんとデザインにつながりますよ!——そしたら美術の先生がとことこ歩いてきて。僕自身は美術の授業はとっていないし、美術部でもなかったんですけど、狭い高校なので、まあ、知っている人です。「あ、関口くん、こんにちは」って、いきなり出会い頭に「関口くん、無理してるよね?」って。

一同
(笑)

関口
なにを言うんだこの先生は、と(笑)でも「無理してるよね?根暗でもいいんだよ」って言われて、もう、びっくりしちゃって。男子ゆえ、やっぱり元気な子は人気というか、強いというスクールカーストだったから、衝撃の発言だったんです。なにを言っているんだと!それで「入部とかしなくていいから、放課後は誰かいるし私もいるからなにか描きに来なよ!」と言われたんです。それで、ときどき顔を出すようになりました。

大林
すんなりと(笑)

関口
まあ、イラストレーションみたいな絵心はまったくなかったけれど、絵を描くこと自体に興味があったんですね。それでデッサンとかやってみたら、なんか楽しいなと。そうしたなかで、なにかものを作るとか、きれいなものを楽しむみたいなことに、肯定意識が芽生えてきました。自分でもやっていいんだよみたいな。いろいろ掘っていくと、それが一番最初のきっかけだったなあと思います。

それこそ、中学や高校の同級生が、僕が今こういう仕事をしているのを知ったら驚くと思うんですね。まあ、でもパラダイムシフトというか、僕のなかでそれぐらい大きかったんです。

吉竹
パラダイムシフト(笑)

関口
それでさっきの話にもつながるんですけど、ちょっと名刺作ってよとか、いろいろ出てきました。Adobe Illustratorを触ったりすると「あっ、文字が打てる」みたいなうれしさもあった。それで、ものを作ると人が使ってくれて、よろこんでくれる。人の役に立てるなら、僕みたいなやつでも!みたいな思春期ムーブをかまして。それで今に至りますね。なので、そのあと「あいつはなにか作れるらしい」っていうのが広まってくると、催しものをやりたい人に呼ばれたりとかして、便利屋になるわけです。

吉竹
はいはいはい。

関口
友達に好きなバンドのCDを貸すとき、頼まれもしないのに謎のオリジナルジャケット付きのCD-Rを渡したりして(笑)

中村
やっぱり、そういう時期が一度はありますよね(笑)

関口
完全な黒歴史をね、かましたりしていました。親との約束は理系の大学に進学することだったんですが……そのなんというか、ちょっと親をだまして(笑)工業意匠科に行きたい!とパンフレットの図面が載っているページだけを見せて、デザインを学ぶところに行ったという経緯ですね。そこでは榮久庵憲司先生が当時、学科長をされていました。

中村
親御さんにはプロダクトデザインとは言わない(笑)榮久庵憲司さん、GKの創立者ですね。

関口
そうです。GKの。日本のデザインの黎明期のこととか榮久庵先生を通じて学ぶ機会をえられたり、当時、ユニバーサルデザインが盛り上がっていたから、それはそれでよかったんですが、最終的にはグラフィックデザインがやりたくなりました。

友人たちとサークルまがいのものを作って、仕事の真似ごとみたいなことをはじめて。クラブイベントのフライヤーとか、ポスターだの会場図だの、作りものをいっぱい手がけるようになりました。そのなかでチラシの裏面とかで文字組みをしているときが、いちばん楽しいことに気付いてしまいます。

中村
わかります。チラシやハガキの裏面とか。そうして活字だけで扱うところは、妙にプロ意識が育つような感覚がありますよね。一見するとおびただしい文章量が、ここの工夫でおさまるか、とか、ここの行送りや字間調整でバランスとれるな、みたいな。

関口
ありますね。文字を組める仕事はないのか、というところから、エディトリアルデザインに入った感じがあります。

中村
Illustratorがあれば活字が扱えるわけだから、ああした文字情報だけの部分は、素人仕事でもさらっとできそうな気がしてしまう。だけど精度を上げようとすれば、それまでの技量だけじゃ立ちゆかないところが出てきますよね。そうなると、タイポグラフィの沼に足を踏み込むことになる。

大林
いい意味で沼。やらないといけないことがあって、それに対して制限がある状態ですもんね。フライヤーだと表面は結構、好きにできるじゃないですか。裏面だとだいぶ機能的に詰まっている状態から、やらないといけない難しさがありますね。

中村
あれ、基本的には情報処理じゃないですか。いわば絵づくりなるものの延長とか違うところにある。つまりそれまでの自分自分の技量とかスタンスだけじゃ立ちゆかない世界がある、というのを実感する最初の瞬間かもしれません。たぶん、この4人ともDTP以降の世代だから、それを手にする前でも「Illustratorならこれができる」「Photoshopならこれができる」みたいに、自分自身がそれを持ったときの想像はあったと思うんです。で、実際にイベントとかのチラシとかにタッチすれば、表面と裏面のハードルの質の違いを痛感する。ええ、そんなに文字量おさめないといけないのかみたいな。

関口さん、ありがとうございます。では、最後に大林さんお願いします。

文脈をよむ、文脈を編む

大林
はい。僕はデザインの仕事をする前に、デザインというものを意識したタイミングについて紹介できればと思います。まずこれがプリンスの『パープル・レイン』の裏ジャケなんですけど、曲のタイトルごとに違う書体になっています。それぞれの曲調に書体が合わせられてるんですが、これがすごくおもしろいと思って「あ、そっか。よく考えたら書体ってあるな」と気づきました。

[図4]Prince & The Revolution『Purple Rain』カバーアート裏面 [図4]Prince & The Revolution『Purple Rain』カバーアート裏面

それからパブリック・エネミーというヒップホップのアーティストのロゴですね。この書体はステンシルに穴をあけてスプレーで表現していて、文字に切れ目が入ってるんですけど、これを見たとき「エドウィンと同じじゃん!」って思って。つまり、書体っていろいろ使いまわされるものだと気付いたんですよね。

さっきのプリンスの話でちょっと余談ですが、昔アル・ゴアというアメリカ副大統領だった人がいるじゃないですか。その奥さんが80年代ぐらいに検閲団体を率いてたんです。それで娘さんの誕生日だかクリスマスだかに、プリンスの『パープル・レイン』がほしいと言われて買ってあげるんですけど、音楽を聞いたら性表現がはげしくて「娘の歳にきかせられるようなもんじゃない!」と怒ったことで生まれたのが、この「PARENTAL ADVISORY EXPLICIT CONTENT」という勧告をしたラベルでした。

[図5] PARENTAL ADVISORY EXPLICIT CONTENT [図5] PARENTAL ADVISORY EXPLICIT CONTENT

これは保護者に対する勧告で「子供向けの内容じゃない」というマークなんですが、それが『パープル・レイン』とアル・ゴアの娘さんをきっかけに生まれたわけです。

中村
おお、ザッパ!

[図6]Frank Zappa『Frank Zappa Meets The Mothers Of Prevention』カバーアート [図6]Frank Zappa『Frank Zappa Meets The Mothers Of Prevention』カバーアート

大林
そうです、これがさっきのPARENTAL ADVISORYのロゴをパロディにしたフランク・ザッパのカバーアートですね。ザッパはなんというか、ロックの煩型の人で、彼はこの検閲が表現の自由を妨害するものだということで、抗議活動をしていました。

それから、これ僕が高校のとき、男子校だったんですけど、その頃に友達の間で妙に聞かれていたアルバムです。

中村
ジャケットからして男子校っぽいですね(笑)

[図7]The 2 Live Crew『As Nasty As They Wanna Be』カバーアート [図7]The 2 Live Crew『As Nasty As They Wanna Be』カバーアート

大林
The 2 Live Crewというヒップホップグループの『As Nasty As They Wanna Be』っていうアルバムで、こういうふうにPARENTAL ADVISORYのロゴがあると、これがイケてる音楽だと思って、みんなが買いはじめるようになっていたんです。本来は注意喚起の記号なんだけど、それが若者にイケてるコンテンツだと知らせることになっている。高校くらいのときですが、こんなところにデザインのおもしろさを肌で感じていました。PARENTAL ADVISORYも言ってみればタイポグラフィですよね。

中村
タイポグラフィですね。しかし、おもしろい流れ。ヤングカルチャーとしては毒のあるものをほしがる時期でもあるし。90年代、まだ輸入盤ばかりだったタワーレコードなんかではよく見かけましたね。

大林
毒があるものを止めようとしている立場の人の方が知らせているという逆転現象が起きてて、メタルとヒップホップには付いてること多い。

関口
僕、かっこいいマークだと思っていました。

大林
そうですよね。

それから、ステューシー。このブランドのレタリングとかタギングを真似して描いていると、書体としての規則性がわかってきて。たとえばRには、脚のところがぐるっと巻いてるのと、そうでない二種類があります。いろいろニュアンスがあるんだけど、ひととおりのグリフがわかってくると、自分で再現できるようになってくる。

中村
つまり、ステューシー風のデザインが展開できるようになる。

大林
そうですね。ステューシーはこれ以外のパターンもあって、それを全部真似してました。そのうち腕時計にステューシー風に ‘Hiroshi’ って、自分の名前を彫って……。

中村
パチモンを作ると(笑)

大林
そうそう。で、そのとき付き合ってた彼女のお母さんがそれに食いついて。えつこってお名前だったんですけど、同じように ‘Etsuko’ って彫ってあげて(笑)最初のEがちょうど本家のStussyのSっぽくて、なかなかよくできてたんですよね。

一同
(爆笑)

中村
ファンキーだな(笑)

大林
すごくオープンな方だったんですよ(笑)

中村
高校くらいだと人気を呼びそうな特技ですね。単に見た目を真似するだけでなくて、文脈をつかもうとしている感覚がひとつ上手な感じがしますね。

大林
どうなんですかね。やらされ仕事の話でひとつ思い出したんですけど、当時よく行っていたレコード屋の人から「大林くんデザインみたいなの、できるんでしょ?」って言われて、「あー、たぶんかんばればできます」って答えて(笑)

中村
がんばれば(笑)

大林
神戸のレコード屋さんだったんですけど、その人の知り合いが店を出すからロゴを作ってほしいという話だったんですね。それで60年代のロックバンドのザ・バーズのロゴみたいな感じで作ってほしいと言われたんで、サイケっぽく作って納品したんです。でもそのあとまったく音沙汰なくて、ボツになったのかな、くらいに思っていました。そしたら、あるとき三宮駅で電車を待っているときに、目の前にそのデザインと同じロゴのネオンサインが光っていて(笑)

中村
勝手に使われていたと……。

大林
そう、勝手に使われて、お金も全部持っていかれたんだなってわかって。

中村
しかも、ネオンまでつけられて(笑)

大林
そう。だから、二重に驚きました。

関口
こういうストリート系の文化を、面じゃなくて特徴量を抜いていく方向にいくってかなりレアキャラですよね。

大林
特徴量を抜いていく。なるほどたしかに。

中村
たしかにそうですよね。普通だと単純なフォロワーにとどまっちゃうところを、コントロールできるまでになっている。

大林
でもやってることは相当なフォロワーでしょう(笑)

中村
Etsuko時計、ちょっと見てみたい(笑)

でもやっぱり、4人ともそういう時代が必ずあったのがおもしろいですね。デザイン小間づかいみたいな状況。当時と今では状況が異なるかもしれませんが。

変わっていくデザインの意味

大林
そういう意味だと、昔はなにか頼まれたら作ってあげるみたいな構えの心理でしたね。こういうの作ってね、という話をされても、それが全然正解じゃないこともあるのが、今はわかる。それなら、もうちょっとこっち主導で全体の体系を汲んで、そのなかでデザインしないといけないのがだんだんわかってきて。

それは個人的な成長でもあるし、社会全体としても、その範囲がデザインと認識されるようになってきています。要するに「デザインはプロセスだ」ということなんだけど、プロセスそのものもデザインしてるってことですね。

中村
世間のデザインに対する認知や期待、リテラシーの質が変化していますもんね。

大林
そうですね。かなり変わってきたと実感しています。自分の若いころから今まででも、相当変わっているんで、この先ついていけるのかという怖さはあります。

中村
たしかに。まだ僕らぐらいが学生のときはAdobeをそろえておいて、そこからはなんとなく我流でやっていく……みたいな風潮があったけれど、もうそこのラインではなくなっていますもんね。学生世代に期待されていることも。僕らの学生時代は学校の授業と、自分たちの実践的な動きに少し乖離があったけれど、そうでもなくなってきたのかな。

大林
チュートリアルならYouTubeにありますもんね。

中村
そうなんですよね。2000年前後、Adobeをみんなが買いはじめてしばらくすると、モダンデザインのリバイバルがあったじゃないですか、スイス派とかの。我流でデザインみたいな空気から、すぐに教科書的なところを時代が求めはじめた。

あ、チャットで質問がきています。「現在あるもののなかで、これイカしてるというデザインはありますか。」と。うーん、けっこう難しい質問ですね。

関口
すごく申し訳ないんですけど。今、キャッチポイントというか、もの単体でこれっていうような、あんまりそういう見方でものを見なくなっちゃっていて。

大林
この前、中村さんともそういう話をしましたよね。「これ、いいデザイン!」となることが、あんまりないというか。どう使われるかで決まるんで、使っている人にならないとわからない。それで、使ってる状況みたいなのを俯瞰して、よさそうだなとは思うけど、想像でしかない。

関口
そうなんですよね。デザイナーとしての目線はもちろん外せないんですけど、どちらかといえばいち個人というか、いち市民としていいと思ったもの。それにデザイナーとしての観点が加わっているぐらいの見方のほうが多いですね。あとは趣味の範囲で「これすげーよかった!」くらいのもので。

吉竹
僕も同じですね。せっかくなんで、いち市民というか、完全個人の主観から見れば、やっぱり最近はクルードラゴン。スペースシャトルというか、ロケットが打ち上がっているじゃないですか。個人的には、次の時代が見えてきたなというところで、とても興奮はしています。

宇宙関係はけっこう好きなコンテンツなので、今まで夢想していたような未来が、ちょっと近づいてきたなという意味で、僕のなかではホットトピックのひとつですね。

中村
僕も好きなデザイン、だんだんわからなくなってきたな。それって要するにデザインがスタイリングだけで判断してはいけないと、みんなが気付いたことでもあるし、反対に言えば、なぜ今までは、スタイリング的な好き嫌いがまかりとおっていたのか、不思議です。いっとき流行のモード的みたいにとらえられていたからかもしれません。中目黒の家具店とか、広告代理店系のブランディングとかの展開。

大林
さっきの『Casa BRUTUS』もそうですよね。

中村
そうですね。機能と美を区別して、デザインを判断する見方がありますよね。「デザイン性が高いけれど機能がイマイチ」とか「いや、これは機能美だからうつくしい」みたいな。デザインと機能が反するものであるかのような、そういう変な傾向。

関口
デザイン家電……。

中村
そう。ありましたね。なんだよ、その「デザイン」って、みたいな(笑)デザイン家電じゃない家電のデザインはなんなんだと。デザイナーがいないわけじゃあるまいし。

関口
自分は2001年から2006年までが大学時代。そのころから直後くらいは広義のアートディレクションをコミュニケーションデザインという流れがありました。あれはちょっと現代美術っぽい見方。記号性とかを逆手にとって、いろいろなものの意味性をいじってゆくみたいな。そのバランスをいかにとるか、みたいなのが少し流行った……という解釈を僕はしています。その必要性は当時はあったにせよ、今はもう少し地に足がついてきている。チラシ作って、ロゴ作って、という時代から、お店やるからまかせるデザイナーを探しているんだよね、という流れになっている。

中村
そうですね。単体のオーダーではなくなってきていますね。認識としても。総合的なデザインへの期待が高い……うーん、高いのかな。まあ、そのあたりこの20年ぐらいの変化なのかなっていうのを実感します。僕も歳をとりましたね。

次の質問です「趣味でも仕事でも自分の好きなデザインか、万人受けのデザイン。一生どちらかしか作れませんって言われたら、どちらを選びますか」というもの。これの答えはわかりやすいかな。

大林
答えを重ねるようですけど、そもそも自分の好きなデザインをデザインしたい、みたいな気持ちがないですね。で、万人受けのデザインっていうのも存在しないので、どちらも選べない。

中村
これ、二択ではない感じはしますよね。

大林
そう、そのあいだのグラデーションをどこで選ぶかという話になりますね。

吉竹
やっぱり僕もグラデーションの話、完全に同意ですね。

僕が制作する同人誌、好き勝手作っているって言ったじゃないですか。だからあれは表題にデザインを入れなかったんですよね。やっぱり自分だけが考えて、自分が好きなものを作るのは、僕はデザインではないっていうふうに思っているので、そのときは「グラフィックプロトタイプ」っていうちょっと、遠まわしな(笑)

大林
逆に難しそう(笑)でも意味はすごくわかります。

中村
新たな概念を作っちゃう(笑)

関口
そういう悩みって、僕も若い頃いっぱいあったのでわかるんですけど、ここで言う万人受けの万人のなかに、自分はいないってことになりますよね。

一同
たしかに。

大林
今、関口さんの話を聞いていて、僕も若い頃こんな質問するような気持ちあったはずだと思って、さっき突き放したのが申し訳ない気持ちになりました(笑)

たしかに若い頃って、自分と世界しかないみたいな世界観だと思うんですよ。自分以外は全部わからなくて、でもそこに認めてもらわないといけないみたいな感覚。その感じを忘れていました(笑)

だから、さっきみたいな質問したくなる気持ちはよくわかるんですが、そのうち成長していくと変わってくるんじゃないかなという気がします。

中村
だんだん、その感覚ではなくなってくるっていうのがありますよね。自分が融けてゆくというか。

大林
そうですね。感覚が変わっていくのが、デザインの仕事をするうえでのある種の正解という感じがします。なんというか、すみません!大人になっちゃいました(笑)

中村
大人の話になっちゃった(笑)というところで、過去を振り返る時間としてはいい締めかもしれません。まもなく時間になりますから、ひとまず今回の座談会はこれで終わりにします。大林さん、関口さん、吉竹さん、ご参加いただいたみなさん、ありがとうございました。

(2020年11月22日 学校法人専門学校 東洋美術学校 学園祭『東美祭 2020』にて収録)

デザインのよみかた